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▼  岡田武史の学生時代の経歴

先日、サッカー日本代表の次期監督に就任することが決まった岡田武史氏。
2度目の日本代表監督に就任したこの岡田武史氏やけどアンタ、彼の学生時代はどのような経歴やったさかいしょうか。

実は意外かもしれまへんが、初めからサッカーをやっとったわけではおまへんみたいや。
帝塚山学院小時代は少年野球に明け暮れており、また、南海ホークスの応援に大阪球場へ通うちう野球少年やったんやね。

サッカーに目覚めたのは中学に進学してから。
部活動を決める際、野球部を見て上下関係が厳しいと感じ、オノレには向いてへんと思い野球は断念したんだそうや。
ほんでメキシコオリンピックでのサッカー日本代表の活躍を見てサッカーを始め、熱中していくこととなったんや。

青年時代は、五木寛之の『青春の門』やらなんやら、早稲田大学が登場してくる小説を読んだことに影響を受け、早稲田大学への入学を目指したんや。
中学から始めたサッカーはメキメキと実力を付けていき、天王寺高校3年時には高校生では3名だけとなるユース代表にも抜擢され、クウェートで開催されたAFCユース選手権に出場。
ほんで、1浪を経て早稲田大学政経学部に合格を果たしまんねん。

大学生活の当初はサッカー同好会である稲穂キッカーズに入り、本格的な競技サッカーからは離れとったそうや。
やけどアンタ、早慶戦のちびっと前になってサッカー協会の人に説得を受け、早稲田大学ア式蹴球部に入ることを決断し、以後DFとして活躍したんや。
また、在学時に学生結婚もしていまんねんわ。

▼  岡田武史の古河電気工業サッカー部時代

オシム監督の入院を受けて、次期日本代表監督に就任した岡田武史氏。
では、そないな岡田武史監督の現役選手時代とはどのような選手やったんでっしゃろ?

大学までサッカー部に所属しとった岡田はんやけどアンタ、進路決定の際、サッカ部がある実業団ではなく当初はマスコミへの就職を希望しとったそうや。
やけどアンタそれは叶わんと終わり、1980年の大学卒業時には古河電気工業サッカー部に入ることとなるんや。
このサッカー部は現在のジェフユナイテッド千葉の前身となるチームやね。

ポジションはディフェンダー。
頭脳的なディフェンスを武器に活躍をみせ、清雲栄純監督の下、86年のアジアクラブ選手権での優勝にも大いに貢献したんや。

また、1990年にドイツの名門クラブであるバイエルンミュンヘンとの試合にも出場し、チームは1−2で善戦するも敗れたんやが活躍を果たしたそうやね。
当時34歳やった彼の飽くなき向上心は強く、まだまだ現役生活を続けるつもりやったちうわけや。
やけどアンタ、この試合でのプレーによって、アチラクラブの選手との埋めることのでけへん差を身をもって実感することとなり、引退を決意。
また、このときが日本人がアチラの強豪クラブを相手にどうすれば勝てるようになるのやろうか、ちう指導者への道を模索するキッカケとなりよったようや。
結局、この古河電気工業では1980〜1990年までの11年間プレーしたんや。

現役時代もなかなかええプレーヤーやったみたいやね。

▼  岡田武史の日本代表選手時代

日本代表監督に就任した岡田武史監督やけどアンタ、現役時代も日本代表としてプレーしたことがあるちうことを知っていまんねんわか?

現在のJ1ジェフユナイテッド千葉の前身となる古川電気工業でプレーしとった岡田武史。
これは1982年に、岡田はんが日本代表としてインドのニューデリーでのアジア大会に出場した際の話なのやけどアンタ、最初発表された代表メンバーには岡田はんの名がおまへんやったちうわけや。
せやけどダンさん、当時、代表のキャプテンを務めとった前田秀樹はんが負傷によって参加を辞退したことで岡田はんが追加招集されたちうワケや。
背番号は前田はんがつけとった9をそのまんま背負うこととなったんや。

日本は1次リーグにおいて韓国、イランちうアジアの強豪国と相対する厳しいグループに入ってしまおったんや。
せやけどダンさん、初戦のイラン戦では攻め手がほとんどといってええほどなかったにも関わらず、終盤の木村和司はんによるゴールで1−0で勝利をおさめまんねん。
ただ、このイラン戦での岡田はんの出場はおまへんやったちうわけや。

最終戦の韓国戦の試合前の段階で、日本が2勝で首位、韓国が1勝1敗。
せやけどダンさん、得失点差により、日本が自力での1次リーグ突破を確保するためには引分け以上が必要。
その大一番の韓国戦で、日本はFWの尾崎加寿夫はんに代えて、守備的な中盤の選手として岡田はんを大会初起用。
日本は前半に1失点を喫するも、後半13分に岡田はんのクロスを原博実はんが合わせて、1−1の同点としまんねん。

後半30分を経過し、勝つ以外には1次リーグ突破の目がない韓国に攻め込まれまっけど、日本は辛抱強く守るちうわけや。
ほんで、一瞬のカウンターから風間八宏はんが左翼サイドのゴールライン際からグラウンダーのボールを蹴り、そこに攻め上がった岡田はんのダイレクトシュートで逆転に成功。
結局そのまんま2−1で逃げ切り、日本は首位で1次リーグ突破を決めたんや。
岡田はんは守備を期待されての起用とはいえ、2ゴールに絡む活躍。
日本の1次リーグ突破に大いに貢献したちうワケや。

▼  岡田武史、特任教授としての活動

オシム監督の入院に伴い、急遽日本代表監督にもっかい就任した岡田武史はんやけどアンタ、よりどエライ昔は大学での講義も行ったりしとったそうやね。
北海道教育大学には平成18年度から行っとる特任教授制度ちうものがあって、著名スポーツ指導者らを講師として招聘しキャンパスで講義を実施しとるのだそうや。
その際に当時横浜Fマリノスの監督をしとった岡田武史はんも岩見沢キャンパスで講義を行おったんや。
当日は、後志郡赤井川村にあるキロロリゾートで合宿を行っとったマリノスと岩見沢キャンパスサッカー部の練習試合の後、岩見沢キャンパスに移動して講義を行うちう流れ。

講義には、岩見沢キャンパススポーツ教育課程の学生のほか、サッカー部に在籍しとる部員や、市内のサッカー関係者やらなんやら約200名が出席したようや。
また北海道教育大学の他キャンパスにもテレビ会議システムでいっぺん中継され、講義の様子が配信されたちうことや。
これはなんだかどエライ話やね。

講義において岡田はんは、理想のチーム作りに関して熱っぽく語りたんや。
また、選手に必要な意識については「楽しむこと」「お互いの存在を認め合うこと」「オノレで考えて責任を持って判断すること」やらなんやらがどエライ重要であると説いたそうや。
日本代表監督にまで上り詰めた人やろから説得力があるんやよね。
講義を受講した人にとってもためになる話やったさかいはないでっしゃろか。
わいもできることならその場で聴講してみたかったやね。

▼  岡田武史の著書「岡田武史の考えるサッカー」

「岡田武史の考えるサッカー」

岡田武史監督の著書やね。
内容自体は、どちらかちうと少年向けに書かれとるのか、どエライ分かりやすくかつ気軽に読むことができまんねん。
せやけどダンさん、サッカー教本としても内容は濃く書かれていて、どエライ好感が持てる内容だと思うで。

サッカーはなにも、ベッカムのフリーキックやキラーパス、スーパーゴール・・・だけではおまへんと思うで。
そういう楽しみ方もええでっしゃろ。
やけどアンタ、サッカーの技術や戦術やったり、スピードやスペース、さらに選手自身のメンタルやらなんやら、試合や練習を含めて、選手は何をすればええのか?
そのような本物のサッカーを知るためにもどエライ参考になる本だと思うで。

どうすればサッカーが上手くなれるか?
どうすればプレッシャーに打ち勝てるのか?
プロフェッショナルとは何なのか?やらなんやらサッカーに関する様々な考え方のヒントが出ていまんねんわよ。

未来の日本サッカー界を支えていく役割を担うボウズたちが、気合や根性だけではなく、キチンとしたコーチング、正しいやり方で楽しみながら、サッカーが上手くなれるための本だと思うで。
やので、この本を5段階で評価するなら本自体の内容には星5つをつけまんねん。
ただ、問題は発売されたのが99年と比較的古くさいのでなかなか手に入りまへん点でっしゃろか。

入手には図書館やらなんやらに置いてある場合は借りるか、古本屋はんを回るか、またはネットショップ(アマゾンやらなんやら)を利用するのもええかもしれまへん。

▼  岡田武史の著書「蹴球日記」

「蹴球日記」

岡田武史氏の著書のひとつやね。
のちに横浜Fマリノスの監督として現場復帰し、J完全優勝に導くことになる前年の2002年日韓W杯の観戦記や。
彼が目にした記念すべき自国開催のW杯を、彼自身のサッカー観、人生観やらなんやらも交えつつ語ってくれていまんねんわ。
岡田氏自身が監督を務めたフランスW杯を引き合いに出しとる箇所もあり、“「ただ一人のW杯代表監督を務めた日本人」が書いた本”といった感じは行間からも読み取れまんねん。
特に随所に織り込まれた昔のエピソードはどエライ興味深いやね。
例のカズ外しの後、オノレでは友人だと思っとったジャーナリストに痛烈に批判を受けショックを受けたり、すっかり有名人になってタクが金を受け取ってくれなかったり・・・やらなんやら。
そのほかにも当事者でないと書けへんエピソードが随所に隠れとるのがおもろいやね。
そういうのもあって読み始めてからケツまで一気に読めた作品やったちうわけや。
もし「岡田武史」ちう人物自体にはそれほど興味がないちう人でも、02W杯を回想する機会にもええかも知れまへんね。

やけどアンタ、結局のトコW杯全試合の観戦記ではおまへんちうことはあらかじめ言っておきまんねん。
ただ、主要な試合はテレビ観戦を含め、ほとんど網羅しとるので一般的なサッカーファンには充分楽しめる内容となっていまんねんわね。
この時のほとんどの試合は観たさかい、「こないなことを岡ちゃんは思っとったんだな」と思うことは多々あったことやねんし、そういう意味でも面白かったやね。
興味がある方は読んでみておくんなはれ。

▼  岡田武史の著書「勝利のチームメイク」

岡田武史はんといえば、何年か前に「勝利のチームメイク」ちう野球の古田敦也はん、ラグビーの平尾誠二はんとの対談形式の本を出されていまんねんわ。
ただこれがちーとばかし特殊な対談方式でして、古田・平尾、平尾・岡田、岡田・古田と組み合わせを変えて3通りの対談が載っとるんや。
組み合わせによって話題を絞ったほうがええと考えたさかいしょうかね。

この本を読んで感じることは、3人の頭の良さやね。
監督、コーチ、捕手として必要なものとは・・・と問われた際によく挙げられる「コミュニケーション能力」が、皆はんどエライ高いなと。
具体的には、相手から話を引き出すこと、例え話を使って相手に理解させることがどエライうまいんや。
また、修羅場での経験が豊富やろから説得力もあるんやね。
スポーツファンなら、そういえばそないなことあったなーと過去の名シーンを思い出したりしつつ、どエライ興味深く読み進めることができると思うで。
2003年に発売された本やので若干話題が古くなってしまおるけどダンはん・・・。

これは岡田はんの話やけどアンタ、ある日Jリーグの試合で、ふとウチをジーッと睨んでいる女性の視線を感じたんだそうや。
後で聞けば、その女性はかつて代表から外された選手の奥はんやったとか。
「監督とは孤独なもの。やから人間的に強くなるよ・・・」と、この本の発売から数年後、ヤクルトスワローズの監督に就任することになる古田はんに話す岡田はん。
個人的に3人の話の中で特に引き込まれたのは岡田武史はんの話やね。

▼  岡田武史の選手育成論

先日日本代表監督に復帰した岡田武史監督やけどアンタ、日本での選手育成についてこのような持論をもっておられるようや。

まず、日本人のボウズの特徴として、ボールコントロールはどエライ上手く、これに関しては世界でもトップレベルといっていまんねんわ。
せやけどダンさん一方で、それをいつどのように使うのかが分かっておらへん、とのこと。
日本人は学ぶことが好きで、教えるのが好きな分、オノレで判断させるようなことが苦手、と指摘しとるのや。

これは岡田武史氏が横浜Fマリノスの監督をしていて、2003年、2004年とマリノスを優勝させて臨んだ2005年、2006年シーズンのこと。
岡田氏は選手の岡田氏の戦術への信頼から、それがかえって選手の判断力を奪うことになってしもた・・・ちう反省から、選手自身が判断していく戦術への移行を試みたちうワケや。
せやけどダンさんええ結果は出せず、結局、2006年シーズンの途中で、監督を辞任することになってしもたちうワケや。

当時、岡田氏は盛んに、「今季は俺はなあんも言いまへん」ちうようなことを繰り返して言っとったそうやけどアンタ、すると選手の方は「どうすればええのか分かりまへん」と戸惑っとったのだとか。

岡田氏はその上で、Jリーグクラブの選手育成の危険な一面を指摘していまんねんわ。
ユースの選手は練習漬けで、これでは友達とは遊べない、家族と一緒に食事もでけへん。
人間として成長する一番重要な時期なのにこれは絶対によくない、ちう考えをもっとるようやね。
人とのコミュニケーションとか、サッカー以外にも沢山学ぶべきことはあるちうことを声高に叫ばれていまんねんわ。

▼  岡田武史、W杯までの道

岡田武史監督が指揮をとった日本代表の試合は15試合あるんや。
その中でW杯出場までには5試合の指揮をとりたんや。

加茂監督が更迭され、日本代表監督に就任した岡田氏が最初に指揮をとったのが1997年10月11日のW杯アジア最終予選・ウズベキスタン戦。
最終予選の前半4戦で1勝1敗2分けと苦戦しながら臨んだこの試合は、ウズベキスタンに先制を許すも、試合終了2分前にかろうじて同点に追いつき、最悪の事態は免れたんや。

その次のUAE戦はフォーメーションを変更して臨むもまたもや1−1のドロー。
嫌な空気が流れまんねん。

せやけどダンさん、次の韓国戦では日本にもツキが味方をしてくれたといえるかもしれまへん。
韓国はすでにW杯出場をこの試合を待たんと決めておったんや。
そのためアウェーとはいえ、日韓戦独特の緊迫感ちうものはそれほどなかったちうワケや。
韓国選手は毎日毎晩壱年中のような日本戦で見せるガッツは見る影もなく、日本は2−0で勝利。
ほんでこれで勢いに乗ったのか、3位決定戦進出がかかるカザフスタン戦にも5−1で圧勝。
イランとのW杯出場権をかけた3位決定戦へと駒を進めることとなるんや。

ほんで、日本サッカー史に永遠に語り継がれるであろうイラン戦。
日本は先制をするも、イランに逆転され、苦しい展開。
せやけどダンさんW杯初出場へ意地をみせる日本は同点に追いつき、ほんで未だ記憶に新しい途中起用・岡野のゴールで悲願のW杯を決めたんや。
岡田武史体制から5試合目。
あの試合はホンマに壮絶やったね。

▼  岡田武史監督が率いたW杯

ご存知の通り岡田武史はんはW杯で日本代表の指揮を初めてとった監督や。

W杯ではアルゼンチン、ジャマイカ、クロアチアと同組。
初戦のアルゼンチンは苦戦が予想されたんや。
相手はW杯を2度制しとる強豪中の強豪やろから無理もおまへん。

試合はGK川口の好セーブ連発やらなんやらで耐えまんねん。
せやけどダンさん防戦一方ちう感は否めず、一瞬の隙を突かれてバティストゥータに決められ、そのまんまこれといった反撃もでけへんまんまタイムアップ。
日本のW杯初試合は0−1で敗戦となってしまおったんや。
スコア以上に力の差を感じた試合やったような気がしまんねん。

2戦目の相手はクロアチアやったが、この試合は前半日本がやや押し気味で進めまんねん。
せやけどダンさん、またもや後半にスーケルに1点を奪われ、攻撃的な選手を投入して反撃を試みるも、0−1で敗戦。
W杯の壁の高さをまざまざと感じさせられたんやね・・・。

3戦目はジャマイカ。
すでにグループリーグ敗退が決まっとる両国やったが、なんとか1勝して母国に帰りたいトコや。

「ジャマイカには勝てるんやないか」

そないな日本国民の期待があったと思うで。
わいも正直言ってそういう気持ちで観ておったんや。
やけどアンタ、それも裏腹に、この試合も中山雅史のW杯日本史上初ゴールで1点をぶちこむも、1−2で敗戦。
結局、岡田武史体制の日本にとって初めてのW杯は、3戦全敗ちう結果になってしまおったんや。

とにかくW杯の壁の高さを感じた3試合やったね・・・。

▼  岡田武史体制、W杯までのテストマッチ

岡田武史監督は日本代表の試合を15試合指揮したんやが、イランとの死闘の末W杯初出場を決めた試合以降、岡田武史体制の日本は苦戦が続きたんや。
あのジョホールバルの歓喜以降初めての代表戦となる、1998年2月15日のオーストラリアとの国際親善試合、3月1日のダイナスティ杯韓国戦こそ3−0、2−1で勝利しまんねん。

せやけどダンさんダイナスティ杯の中国戦で0−2で敗北を喫して以降、日本はなかなか勝てなくなってしまいまんねんわ。
4月1日に行われた韓国とのW杯共催記念試合でも1−2で敗戦。
しかも、内容もええとは言えず、本戦に向けて暗雲が立ち込めることになるんや。

5月にパラグアイ、チェコを招いて行われたキリンカップでも岡田JAPANの苦戦は続きたんや。
ホームにも関わらずパラグアイに先制を許し、終盤に相馬直樹のゴールで追いつくのがやっと。
チェコ戦もなかなかゴールを奪うことが出来ず、守備陣は一定の仕事はするも、0−0のドロー。
結果、決定力不足ちう課題を抱えたまんまフランスに乗り込まざるをえへんこととなってしまおったんや。

6月3日にローザンヌで行われたユーゴスラビアとのW杯前ケツのテストマッチでもこの課題を払拭することはできまへんやったちうわけや。
相手は強豪とはいえ、0−1で完封されたちうのは本戦は相当苦しい戦いになることを予感させたんやね。
岡田監督も頭の中は不安しかなかったんではおまへんでっしゃろかね・・・。

結局、W杯本戦でも3戦全敗でGL敗退。
アジアと世界との差をまざまざと痛感させられた数ヶ月やったね。

▼  岡田武史の考える環境問題

サッカー日本代表の監督に就任した岡田武史監督やけどアンタ「環境問題」にも関心があるようで、日本サッカー協会・特任理事として環境プロジェクトに取り組んだりもしたそうやね。

岡田武史氏が、環境問題に興味を持ったのは意外にもかなり前で学生時代にまでさかのぼるんや。
本を読むのが好きで、ある時、『成長の限界』ちう環境のカンペキに破壊や資源の枯渇を警告するリポートを読んだことが環境問題に興味を持ち始めたキッカケだそうや。
ほんでは環境関連の本を沢山読むようになり、米政府の21世紀地球環境問題予測リポートである『西暦2000年の地球』ちう本に衝撃を受けたのだとか。
ほんで「これはエライことになるな。オノレに何ができるのやろう?」と考えとったら、あるNPOに出会い、環境問題に関わるようになりよったちうわけや。
02年に監督業を休んでいた際には、ヨハネスブルクで開催された環境サミットにも参加し、ようけのNPOのトップと会たようや。
こないなことをしとったなんてまるっきし知りまへんやったね。

前述のサッカーを通じた環境プロジェクトでの活動はどのようなものやのでっしゃろか。
具体的にはスタジアムでは飲み物類の販売のときには、何度も使用できるリユースカップの導入しとるみたいや。
その他にも、チケットの裏に環境クイズを印刷し、ハーフタイム中にオーロラビジョンで正解を伝える」「生分解性プラスチックの食器を使用する」等、様々なアイデアを持っとるのだとか。
また、このプロジェクトを成功させるためには、チケット収入からの寄付によって植樹できる面積をフィールドやらなんやらに映すといった、活動を「可視化」することが大事だと考えていまようやね。
岡田はんの環境問題への本気度が伺えまんねんね。

▼  岡田武史が実践するエコ活動

岡田武史氏についてやけどアンタ、サッカーの指導は勿論、環境問題にも随分真剣に取り込まれとるそうや。
自身のエコ活動もかなりいろいろされとるみたいやね。

まず、環境活動に関わるようになってからちうもの車に乗る回数が激減したそうで。
出かける際は駅まで歩き、電車で移動することを心掛けとるようやけどアンタ、岡田氏からするとダイエットにもなるしで一石二鳥みたいやね。
また、家族の電気の付けっぱなしにもかなりうるさいみたいやね。
個人的にはあまりうるさいのは嫌やけどアンタ、「理論派の岡田武史氏」に言われると・・・。

また、もともと物は長く使う派で、買い換えるよりは大事に大事にできるだけ長く使って、決して捨てへんようにするよう心掛けとるとのこと。
奥はんもその影響からかマイバックを使うようになうようになりよったらしいや。
まあ、これだけ熱意があると家族も影響を受けてもおかしくないかもしれまへんね。

「マイ箸」も普段から持ち歩いとるそうで、会食の時には失礼ではおまへんかと気にしたりしておられるようや。
また、お酒を飲むと酔いで飲み屋に忘れてきてしまい、娘はんに「逆に環境に悪い!」と怒られることもしばしばだとか。

よりどエライ昔は生ゴミのコンポストも行っとったそうやけどアンタ、生ゴミを分けることがエライでこれはやめてしもたみたいや。
このように完璧にやろうとすると負担が結構大きいので、一人ひとりがまずはできることからやっていく・・・これが大切だと岡田氏は説いていまんねんわ。

▼  岡田武史が考えるメディア

昨今、メディアの取材の際のモラルだとかがいろいろ言われておるけどダンはん、岡田武史はんもメディアの取材姿勢やらなんやらに対していろいろ不満を抱えとるようやね。

岡田武史はんは、メディアには2種類あるといっていまんねんわ。
サッカーなり岡田はん個人なり、日本代表なりに何ぞしらの愛情を持って来る人と、もうひとつは奇妙に意気込みのみが強い人。
大きく分けるとこの2つに分類されるのだそうや。

批判したって何を書いたってそれは別にええけど、ただ、後者の仕事にのみ燃えとる人がインタビューをすると、あまりにも質問の内容が馬鹿馬鹿しくて答える気がしなくなると嘆いていまんねんわ。
「できれば分けたくなるのやけど、そういうわけにもいかない」ちうトコに監督のエライさが読み取れまんねんね。

また、W杯におけるメディアの姿勢にも相当不満があったみたいやね。
「オノレ自身に対するプレッシャーならまだええけど、若い選手がオノレが発言したことの反響だとか、行動への批判だとか、そういうプレッシャーに耐えるのは容易ではおまへん」ちうことも言っていまんねんわ。
常にメディアの一方通行で、オノレたちが反論する場がないことによる選手が受けるストレス、そのようなものがものすごく溜まっとったそうや。

敵は味方の中にもいた・・・ちうことでっしゃろかね。
メディアの取材姿勢に関しては、わいのような一般人でさえも疑問符がつくようなものがあるんやし、もうちびっとなんとかしてほしいものやね。

▼  岡田武史という人間の人物像とは

岡田武史監督ちうと、理論派監督ちう印象が強いと思うのやけどアンタ、その人物像とはどのようなものやのでっしゃろか。
人間としての「岡田武史」について触れてみまんねん。

性格に関しては決して派手ではおまへんのだそうや。
「俺のことをよく知っとる人は、顔の造り同様に性格も派手ではおまへんことを知ってまんねん」とのことやけどアンタ、よく知りまへんわいもそういう印象を受けまんねんね。

せやけどダンさん、逆境に立たされた場合やらなんやらは「よし!やってやるぞ!」とオノレでもかなり強くなれるちうことを言っていまんねんわ。
意外にカッコつける面があり、いっぺんドン底まで落とされてしまうと、もうこれしかない!と逆に開き直れるそうやね。
叩かれへんとダメなのかもとさえ言っとったそうや。

「人間は土壇場になれば強くなるちうわけや。ホンマに人間って強いものや。でも大体は皆、その前に諦めるちうわけや。でも諦めへんで頑張っとったら、人間には底力ってあるものや。」

そうだとすると、この指揮官の性格があのジョホールバルの歓喜を生んだのかもしれまへんね。

また、体育会系のやり方については、先輩を敬う気持ちやらなんやらのついては一定の理解を示していまんねんわ。
せやけどダンさん、そういうものを強要されるのは嫌ちう考えで、 それも暴力的だとか不合理なやり方によって強制されることは、性に合いまへんそうや。
これはわいもホンマにその通りだと思うでね。
彼は元々小学校のときは野球少年やったそうやけどアンタ、そういう不合理なやり方が蔓延しとった中学の野球部を見て、サッカーを始めたちうエピソードからもそれがよく分かるんやね。

▼  意外とユーモアがある!?岡田武史

岡田武史監督ちうと、理論家でちびっと堅そうな印象を受ける・・・ちう方も少なくないかもしれまへん。
確かにそういう面もあるのでっしゃろが、実はインタビューやらなんやらでもジョークを交えたり、ユーモアもある人だちうことをきょうびになって知りたんや。
いくつか紹介してみまんねん。

1998年に代表監督を務める際の喜びについて聞かれると「代表監督になりよったおかげで、王はん、長嶋はん、野村はんと対談もさせてもろたちうわけや。あとはキョンキョンと会うだけや。」
インタビューのケツに「ファンへの文句を」と問われると、「ファンはおらへんなあ・・・」
横浜Fマリノスの監督時代、GK榎本達也に長女が誕生した試合で、「勝ったら武子って名前付けてええよ。」
Jリーグアウォーズにおいて優勝監督賞を受賞した際には「ようやっとロレックスを持つことができたんや。」
Jリーグアウォーズにおいて優勝監督賞に続いて最優秀監督賞も受賞した際には「ロレックスが2つになったんや。」
マリノスの監督時代、47歳の誕生日にケガ人が続出することについて、嘆きながら「プレゼント?ケガ人が戻ってくることやね。」
2002年に監督として現場復帰する際に「これからちーとばかしダイエットでもしようかな。この仕事って見た目勝負だよ?」

このほかにもいろいろあるようやけどアンタ、こういう受け答えをしとることを知ると、「岡田武史」に対する見方がちびっと変わるんやね。
なかなかおもろい人だなーとわいも個人的に思おったんやね。

▼  岡田監督が考える名監督の条件とは

これまでW杯出場がなかった日本をW杯の舞台に導き、Jリーグではコンサドーレ札幌をJ1に昇格させ、横浜Fマリノスを2年連続総合優勝させた岡田武史氏。
個人的には岡田氏は名監督の中のひとりだと思っとるのやけどアンタ、岡田氏本人が考える名監督の条件とはどのようなものやのでっしゃろ?

実際そのようなことを問われた際、次のような名監督像を挙げていまんねんわ。

まず、名監督と呼ばれとるヤカラに共通することは、みな最悪のケースを考えとるちうこと。
ほんで、最悪のケースが起きたときにではどうするか、を考えるのだ、と。
どうせ考えた通りにはならへんのやけど・・・とは言っておるけどダンはん、その上で、まるっきし考えんと「えいやあ!」と最初から思い切ってやってしまうような人はダメだちうのや。
やはり何事もよく考えて行動せんとダメちうことやね。

また、考えるのはええのやけど、ケツまで考え続けてしまって悩む人もダメなのだそうや。
あらゆる最悪の場面を考え切り、なおかつどこぞでその考えをオノレの頭の中から振り切って、「よし、しょうがないちうわけや。これで行くぞ」と思い切るちうわけや。
そのような思考力と決断力のバランスのええ人が名監督やのではおまへんか、と考えとるみたいや。

数々の偉業を成し遂げてきた「岡田武史」が言うことやろからどエライ説得力があるなあと感じたんやね。
またいっぺんに、これはスポーツの監督だけではなく、組織のリーダーや集団のアタマに立つぜんぶの人に言えることなのかもしれまへんね。

▼  岡田武史が掲げる指導理念とは

過去に監督として様々な偉業を成し遂げてきた岡田武史氏やけどアンタ、その監督としての指導理念ちうものが気になるんや。

岡田武史の指導者としての理念・・・彼はインタビューでそれについて問われた際に「信賞必罰と公平」に尽きると答えていまんねんわ。

ええときはほめて悪いときは叱るちうわけや。
これをサッカーに置き換えると、悪いプレー・覇気のないプレーや練習姿勢を見せたときには素直にほめる、逆の場合は叱るちうことでっしゃろかね。
ほんで大事なのはそれをどなたはんに対してもフェアに行うこと。
これは代表を預かったときも同じだそうや。
確かに接し方が選手によって変わることはかなりまずいことやね。
岡田氏も、「どないな選手であっても、監督がオノレのことをどう考えておるかは実に敏感に察知しとる」ちうことを感じ取っとるようや。
特に、人生がかかるといっても過言ではおまへん代表やらなんやらだと、そういった状況では、監督自身がオノレをさらけだしていって正面からぶつかっていくしかないのだ、と。

やけど、そうしたとしても、チーム全員から監督が大好きで深く信頼を受けるちうことはあるわけへんし、選手同士にしたって、どうしても合いまへん者がいる、とも言っていまんねんわ。
そかし、この場合に毎日毎晩壱年中岡田氏が言うのは、グラウンドに立ったときはプロの仕事をしろ、ちうこと。

「仕事の場において個人の利己的な感情を出すのは、完全に失格や」

確かにグラウンド外でのことをグラウンド内に持ち込むことはあってはならへんことやね。

この監督の理念にはしっかり筋が通っていまんねんわし、そういった意味でやはりホンマにええ監督だなと思うで。

▼  コンサドーレ札幌監督時代の岡田武史

日本代表の指揮をとる岡田武史はんは知っておるけどダンはん、Jリーグのクラブの指揮をとる岡田武史はんのことは個人的に正直言ってあまり知りまへん。
やので、初めて率いるクラブチームとなりよったコンサドーレでの岡田監督についてちびっと調べてみたんや。

コンサドーレは1998年にJ2降格を余儀なくされ、その際クラブが目指した「1年でのJ1復帰」の切り札として招聘したのが、岡田武史元日本代表監督やったちうわけや。
日本を初のW杯出場に導き、実績と知名度を兼ね備えた監督としてその手腕への期待は、やはりかなり大きいものがあったようや。
せやけどダンさん、Jリーグクラブでの監督経験が皆無やったことが災いしたのかなかなかチームは軌道に乗ることができまへん。
また、異国人選手の獲得にシッパイしたことも響き、結局この年は昇格争いに絡むことすらできず、5位で終了。
さらにJ2降格によるスポンサー収入の減収もあって、累積赤字が30億円を突破、経営状態も泥沼となってしまおったんや。

就任2年目はクラブは徹底した緊縮財政を断行。
いっぺんに自ら選手獲得に動き、数名の選手を獲得したほか、強力ブラジル人FW・エメルソンが加入。
また、理想を追い求めず、J2を戦う為の戦術の確立に着手し、それを実行できる選手を揃えたこの年のチームは、31勝4敗5分でJ2を制覇。
さらには、好成績によって観客動員数も増加し、初めて単年度黒字を達成。
岡田監督にとってなあんもかもがええ方向に進んだ年となったんや。

もっかいJ1に戻ってきた岡田体制3年目は、この年のちに得点王に輝くことになるウィルの活躍もあって、一時2位にまで浮上するやらなんやら大躍進をみせまんねん。
その後、若干勢いは落ちるも11位でシーズンを終え、クラブ史上初のJ1残留を成し遂げたんや。

こうしてみると1年目以外はきっちり結果を出しとるのがあらためて凄いやね。

▼  横浜Fマリノス監督時代の岡田武史

岡田武史氏はJリーグの名門・横浜Fマリノスの監督も3年半務めた経験があるんや。
2003年に前年まで指揮をとっとったコンサドーレ札幌からマリノスの新監督に就任。
ほんで、久保竜彦やらなんやらを補強して臨んだ岡田体制1年目から1stステージを制し、2ndステージも最終節での劇的な逆転で優勝を成し遂げ、両ステージ制覇によって年間王者に輝きたんや。
コンサドーレ時代の1年目は振るわなかったようやけどアンタ、今度はしっかり結果を残す辺りはさすがとしかええようがないやね。

岡田マリノスは翌2004年も、安定した強さを発揮することとなるんや。
新戦力として日韓W杯でも活躍した韓国のエースストライカー安貞桓(アン・ジョンファン)やらなんやらを補強し、前年の2ステージに続いてこの年の1stステージでも優勝。
なんと3ステージ連続での優勝を果たしまんねん。
2ndステージこそ、浦和レッズに優勝を譲るものの、チャンピオンシップにおいて1勝1敗で迎えたPK戦の末勝利し、J1の連覇を果たす。

岡田武史体制で常勝マリノス誕生か・・・?
そう思ったのも束の間、、翌2005年は、アジアチャンピオンズリーグでのグループステージ敗退を初め、Jリーグでも主力の負傷やらなんやらが響き、年間9位に終わってしまいまんねんわ。
翌2006年も開幕4連勝で首位に立つものの、無敗同士の直接対決となりよった浦和レッズ戦での敗戦以降、15試合でわずか2勝と低迷し、成績不振により岡田監督が辞任する事態に。
岡田監督としてもここまで勝てなくなりよったのは代表監督時以来やのではおまへんでっしゃろか。

▼  岡田武史体制、知られざる秘話

これは岡田武史氏が加茂周監督の更迭をうけて急遽監督に抜擢された際、その心境を岡田は翌日のインタビューにて“ホテルがスイートルームになりよっただけ”と発言。
また、後日も「別に大したことはなかった」と答えるやらなんやらさもなんでもないようにひょうひょうと答えとるのが印象的やったね。
「岡田武史」っていう人物はこないな人なのか、と。

やけどアンタ、そないな裏でこないなエピソードがあったちうワケや。
岡田から日本代表のアシスタントコーチ就任の依頼を受けた小野剛はそれを快諾しまんねん。
ほんでこのとき岡田は逆に「そないなに簡単に受けてええの?例え話やないんだぞ。もしシッパイしてしもたら日本にホンマにいられなくなるかもしれへんんだぞ!」と叱り飛ばしたそうや。
マスコミを交わしながら、強烈に押し寄せてくるプレッシャーと戦うことになるちうその覚悟の一片を見て取れまんねんね。

また、岡田はあの“ジョホールバルの歓喜”の前夜にも、日本にいる家族に電話をかけ、「もし負けたら日本では住めなくなるから異国に移住しよう」ちう内容の会話を夫人としたのだとか。
なあんもそこまで考えることもないのでは・・・ちう感じやけどアンタ、本人にとってはそれだけの覚悟を胸にあの大一番に臨んだようやね。

ほんで、オノレ自身のみならず家族にまでも大きなプレッシャーが国民によって加えられたことにより「代表監督は異国人に限る」とことあるごとに発言していまんねんわ。
やけどアンタ、いっぺんに日本人の良さを一番引き出せるのは日本人、ちう内容の発言も行っていまんねんわ。

▼  岡田武史の代表的なセリフ

岡田武史の発言として最も有名なものはやはり大会登録選手を発表する際のセリフ「外れるのはカズ」ではおまへんでっしゃろか。
わいにとっても岡田氏の数ある印象的な発言の中でも、これが一番衝撃的で印象に残っていまんねんわ。

カズは日本サッカーで最も人気のある選手であり、そのカズを直前で登録メンバーから外す。
当然、この選考には議論を呼び、これによって「岡田武史」ちう人物が好きではなくなりよったちう人もいたようやね。

この大会登録選手発表でカズを外した真意は何やのでっしゃろ。
岡田氏はのちに雑誌のインタビューやらなんやらでそれについて語っておるけどダンはん、やはり相当苦渋の決断やったようやね。
岡田監督自身は発表後は合宿で日本にはいなかったさかい日本国内の様子を直接見るちうことはおまへんやったちうわけや。
やけどアンタ、家族は実際キツかったみたいやった、と漏らしていまんねんわ。
ボウズも、かなり辛い思いをしたようや。

岡田監督もカズを外すことによってこうなるちうことは、ある程度発表前から予想しとったさかいはないかとわいは思うで。
それでもカズを外したのは、日本代表を勝たせる為に監督としてやるべきことはなんやろうと考えたとき、あの結論に達したわけなのだそうや。

岡田監督自身、カズのことを尊敬しとったし、大好きやったと語っており、コーチから反対もあったようやけどアンタ、「俺が決める」とケツはオノレを信じたようやね。
あの決断が正しかったのかそうでないのかはわかりまへんが、相当大きな決断やったことは間違おらへんでっしゃろ。

▼  岡田武史と堀江先生

岡田武史氏にとって人生において大きな刺激や影響を受けた人物はいるのやろうか?と気になって調べてみたら、一人いるみたいや。
母校・早稲田大学の政経学部の先生で、いっぺんにサッカー部の部長を務めとった堀江教授ちう方だそうやね。

岡田氏は高校3年生のとき、早稲田を受験するもものの見事に落ちたんや。
そのとき、当時サッカー部の部長やった政経の堀江先生から手紙が届いたそうや。

「君は合格最低点の半分しかとれていまへん。これでは一年間でどれだけ勉強をしようが無理やろから、来年は体育を受けなさい」

手紙にはそのようなことが書かれとったのだとか。
ただ、それを読んだ途端、岡田氏はもう絶対体育は受けへん、と思ったんだそうや。
意外と言っては失礼かもしれまへんがなかなか負けん気の強いトコロがあったんやね。

ほんで岡田氏はその精神を胸に必死で勉強し、見事早稲田の政経に合格することになったんや。

岡田氏は「早稲田に入って良かったことは?」と問われた際、政経の堀江教授との出会いを挙げていまんねんわ。
政経の教授であり、サッカー部の部長でもあって、四年時には堀江教授のゼミも取っとったちうわけや。
また卒業時、古河電工への入社が決まった際も、卒業直前になって、試験の点数が足りなくて留年の危機に陥ったことがあるのだそうや。
そのときも堀江教授の尽力によって、どうにか卒業にこぎつけたのだとか。

堀江先生のどこに影響を受けたのか?ちう問いには、「学問的ちうか堀江先生の生き方のようなものに影響を受けた」と話していまんねんわ。
今の「岡田武史」を形成したものとして少なからずこの人の影響もあるんやろかね。

▼  マリノス監督辞任から代表監督復帰までの岡田武史の空白期間

イビチャ・オシム監督の入院に伴って岡田武史氏が日本代表監督に復帰されたんやね。
そういえば、昨年8月に横浜Fマリノスの監督を辞任してから今回代表監督に復帰するまで空白期間があるんやが、その間は何をしとったさかいしょうかね?

実は辞任してから次に何をしようかを具体的に考えていなかったらしく、8月から年内の間は、まるっきし働かなかったそうや。
すると奥はんの機嫌が次第に悪くなってきたそうで、冷蔵庫の中のビールがそれまでエビスやったのが、ちびっと安いのに変わり、今度は娘はんと「発泡酒にするか」やらなんやらと話したり。
ほんで、これによって「これは働かなくてはイカン!」となりよったらしく、「元監督岡田武史」として講演活動を始めることに。

その後、よりどエライ昔から深い関心があったちう環境問題だとか難民関係にも積極的に関わりを持っていったそうや。
難民関係では、難民フットサル、カンボジアにおける地雷除去フットサルの支援、電動車椅子サッカーのW杯の支援をしたりしとったみたいやね。

そないなサッカーの指導とは別のフィールドで活動を続けとった岡田氏やけどアンタ、不思議とサッカーが恋しくなりよったりはしなかったとのこと。
サッカーから距離を置いてみると、経済人や芸術家やらなんやら、それまでとはちゃうヤカラとの出会いが実現されるようになって、どエライ充実したものを感じとったそうやね。
本日この時までとはまるっきし違った世界やので毎日が新しい発見の日々なのかもしれへんやね。

やけどアンタ、サッカー界にはいつかまた戻る予感はしとったそうや。
結果的にはその通りになったんやね。

▼  岡田武史の著書「指揮官・岡田武史」

岡田武史監督は著書もいくつか出しておるけどダンはん、そのひとつに「指揮官・岡田武史」ちうものがあるんや。
では、この本について簡単にやけどアンタ紹介してみたいと思う次第や。

この本が発売されたのは岡田氏がコンサドーレ札幌の監督として指揮をとっとった頃やね。
やろから今からすると若干古くささは感じるかもしれまへんね。

内容は波乱の道を歩むことになりよった指導者の胸の内に、朝日新聞のサッカー担当記者が熱く迫っていく・・・ちうもの。
朝日新聞のスポーツ面に連載されとった「岡田武史の301日」を単行本化したものやね。
岡田氏へのインタビューと朝日新聞記者である著者の取材の足取り、思いやらなんやらを重ね、当時を振り返ったものとなっており、岡田氏の考えや現地の様子やらなんやらがリアルに伝わってくるのはよいやね。

急遽の代表監督就任の要請に対応し、日本を史上初のワールドカップへと導いたプロセスは何回読んでも感動せざるをえまへん。
また、その知性だとか家族を大事にする優しさだとか監督としてのみではなく、一人の人間「岡田武史」としての彼の魅力にもなかなか惹かれるものがあるんやね。

それにしても表紙のジャージもええ味を出していまんねんわね。
やはり岡田監督はスーツよりもジャージが良く似合うと思うで。
メガネと一緒にトレードマークみたいなものやね。

少々古くさい本ではあるんやが、当時を懐かしむ意味でも、もし興味がある方は本屋はんやらなんやらで探してみておくんなはれね。

▼  岡田武史、企業の社外取締役就任

「岡ちゃん」こと岡田武史氏やけどアンタ、企業の社外取締役に招聘されたちうことを知っていまんねんわか?

招聘したのは携帯電話向けのコンテンツ配信会社である日本エンタープライズちうトコだそうや。
主に着うたやゲーム・動画のコンテンツ制作・配信しており、また、クライアントに大手企業が多いのが特徴の会社のようやね。
特に現在はKDDIとの結び付きがかなり強く、好調のKDDIに乗っかっていく形で一層伸びていくことが予想されとるそうや。

なんでも、岡田氏と日本エンタープライズ植田勝典社長とは旧知の間柄だそうで、植田社長から直々「協力してくれへんかいな」と申し出を受け、岡田氏も快諾したとええまんねんわ。
8月の株主総会および取締役会において正式に承認される予定なんだとか。
起用の意図は「業績が拡大する中、課題である組織力強化と人材育成の為に、岡田武史氏のサッカーの指導者生活で培った豊富な経験、幅広い見識を生かしてもらいたい」ちう狙いからだそうやね。
サッカー論ちうものが企業論にどれくらい活かされるのかは分かりまへん。
やけどアンタ、ある意味でサッカーも組織論的な面があるので、どエライ興味深いチャレンジではあるんやね。

もちろん岡田氏の知名度を生かしたPR効果ちうのも大きいものがあるでっしゃろね。
そういえば中田英寿氏が東ハト執行役員に就任して随分話題になりよったりしたことを思い出したんや。

なにはともあれ岡田氏の経営者としての手腕ちうものにも注目したいやね。

▼  岡田武史代表監督復帰は正しかったのか?

岡田武史監督の日本代表監督復帰が決まりたんやが、この人選は果たして正しかったさかいしょうか?

わい個人としては極めてまっとうなものではおまへんかと思っていまんねんわ。

まず、現状の日本代表及び選手の状態をある程度把握しとる人物でなければならへんと思うんや。
W杯の予選まで間がない現状やろから、今更オシムのチームから大幅に変えることは危険でっしゃろ。
やので、基本は現在のメンバーをベースに戦っていくことが得策やのではおまへんかと。
代表の状態はどうで、どこに課題を抱えていて・・・やらなんやらを把握しておらへん人物だと混乱を招くことになりかねまへんからね。
その点なら岡田はんならきょうびまでJクラブで指揮をとっており、この条件はクリアしとるものと思うでしね。

また、ある程度実績と経験がある監督でないとだめだとも思うで。
ホンマに急遽の監督交代ちう感じやろから、そないな状況下でいきなり監督経験の乏しい人物を起用したトコで結果は火をみるよりも明らかだと思うで。
その点で岡田氏は代表監督経験があり、また、J2・J1のクラブを指揮、複数クラブで指揮、所属クラブでタイトルを獲得・・・と経験・実績ともに充分や。
日本人監督で彼より経験・実績面で上回っとる人物はおらへんのではおまへんでっしゃろかね。
しいて言えばガンバ大阪の西野氏くらいでっしゃろか。

これらの理由により、オシム監督入院に伴う次期代表監督に岡田武史氏を起用した協会の判断は決して間違いではおまへんと思うで。

▼  岡田武史のドイツ留学時代

岡田武史氏は現役時代・古河電工サッカー部でプレーしとったちうワケやが、代表チームをやめてからドイツへのコーチ留学を行った経験があることを知っていまんねんわか?

ある日、岡田氏は会社に頼んで、留学をさせてくれといったそうや。
させてくれへんのやったら、会社を辞めてでもドイツへ行く!と、上司を半分脅すような感じで行ったんだとか。
まあ脅すちうのは冗談でっしゃろが、留学に関して並々ならぬ意欲があったちうことが窺えまんねんね。
ある意味「岡田武史らしさ」を感じさせてくれるエピソードかもしれまへん。

いざ、ドイツへ渡るとそれはそれは結構な苦労があったみたいや。
まず、行ったときから用意されとるはずの家も車も何故か何にもなくて、仕方がないので安いホテルを借り、新聞広告で貸家を探して電話。
でもドイツ語も当時はよくわかりまへんので直接行って、断られて、別のトコに行って、また断れて・・・この繰り返しやったそうやね。
実際のトコサッカーはあまりやっていなかった、と当時を振り返っていまんねんわ。

ドイツへコーチ留学まやるのやから、帰国後もサッカーで食っていくつもりなのやろうと思っとったら、実際はそうでもなかったらしいやね。
帰国後もまた仕事が出来ると思っとったそうや。
トコロが、日本に戻ってみると、なにか様子がちゃうことに気づきたんや。
ちうのもJリーグが開幕しとったちうワケや。
これには岡田氏も驚きを隠せなかったようやけどアンタ、無理もおまへん。
なにしろ日本リーグ時代の閑散としたグラウンドしか知りまへん岡田氏にとって、何万人もの観衆が大騒ぎしとる光景を目の当たりにして、一体どうなっとるんだ!?と思うのは当然やね。
これについてもまるで浦島太郎状態やった、と苦笑いで振り返っとったそうや。

▼  岡田武史が考える監督業とは?

岡田武史氏は日本代表監督を初め、札幌や横浜FMやらなんやらいくつかのチームの監督を務めてきたんや。
そないな岡田武史にとっての「監督業」とはどう映っとるのでっしゃろか。

岡田氏はかつて名古屋グランパスの監督も務めたアーセン・ベンゲル氏にこういわれたことがあるとええまんねんわ。

「サッカーの監督とは、1%の成功した者に対し99%のシッパイした者が羨むような仕事だ」
「サッカーの監督とは、阿片のようなものだ」

要するになあ、その毒をいっぺん口にしてしまうと、もうやめられへんちうわけやね。

その点、最初から代表監督ちう「最高の毒」を味わうこととなりよった岡田氏は、あの体中がゾクゾクする興奮や、緊張感ちうものは、日常生活では味わえへんとええまんねんわ。
確かにそれ以上の緊張感を味わえることちうのはそうはないでっしゃろね。

また、日本代表監督を辞めた後は、静かに暮らしたいと考えとったそうなのやけどアンタ、ダメやったとか。
それもこれもあの「最高の毒」の味を忘れられへんからに他ならへんのでっしゃろ。

ほんで、監督の仕事とは「何」か?ちう問いには、合理的にどこまで最善の試合を組立てれるか、ちうことやないかと答えていまんねんわ。
様々なデータを頭にインプットし、その要素を分析し、どのようなチームを作り、どのような試合内容に持っていくのか、ちうことを組立てるわけや。
ほんで、そこから戦術や選手起用や指示する、と。
その組立て方に基づいた作戦指示が、どこまで合理的に出来るかが勝負だと岡田氏は考えとるようや。

▼  冴える岡田武史の采配!“ジョホールバルの歓喜”

皆はんはサッカー日本代表の試合の中で最も印象に残っとる試合を挙げるとするならどの試合を選びまっしゃろか?
“ドーハの悲劇”として語り継がれとるイラク戦、日韓W杯において日本史上初勝利を果たしたロシア戦・・・この2試合やらなんやらは挙げる人が多そうやね。
でも、ひょっとすると一番多いのは“ジョホールバルの歓喜”とのちに呼ばれることになるフランスW杯出場をかけたイラン戦ではおまへんでっしゃろか。
わいなんかはそれを選びまんねんね。

岡田武史体制のこのときの日本代表。
その試合を簡単に振り返ってみると、日本は前半39分、中山がゴールを決め大一番で先制点を奪うことに成功。
せやけどダンさん、後半に入り立て続けに失点し、瞬く間に逆転を許すことに。
ここで岡田監督は交代のカードを切り、城、呂比須を投入。
この交代が当たり、後半31分に城のヘッドが決まり、もっかい試合は振り出しに。
同点で延長戦に入ると、岡田はもっかい交代のカードを切り、野人・岡野を投入。
まさしく試合は死闘の様相を呈してきたんや。

結果的にこの采配もズバリとはまり、延長後半終了間際に中田が放ったシュートのこぼれ球に詰めた岡野が、スライディングしながらゴールに押し込み劇的な勝利。
日本が初のW杯への切符を手に入れた記念すべき瞬間やったちうわけや。
このときのゴールまでの一連の流れ、ほんで、岡田監督が両手を突き上げながら猛然とピッチにダッシュしていく姿は、10年近い月日が経過した今でも鮮明に思い出されまんねん。
わいは「岡田武史」ちう人物について冷静な理論家ちう印象をもっとったさかいあの喜びようには驚きたんやね。

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